2017年10月23日月曜日

故伊藤秀行君を追悼して・・・・。

4年半前の平成13年3月18日、六本木サテンドール初出演の日、私の親しいANAの渡辺さんが友人を連れていらしてくれました。
その友人が伊藤君でした。
以前、渡辺さんはANA酒田支店長をされていて、私も会社企画のライブに呼んで頂いて酒田市民会館でのライブをさせて頂き大変お世話になりました。

伊藤君はとても音楽が好きで、学生時代はブラスバンドに所属していたという事で、それからの都内ライブのお知らせをメールすると、毎回友人を連れて来てくれて私を応援してくれるようになりました。

彼は幅広い人脈を持ち、また社交性にも富んでいて毎月の都内ライブは彼が大勢のお客様を集客してくれるようになり、アウェーなのにいつもライブハウスは多くのテリーファンにいらして頂いてました。

そしてさらにカメラマンとしても活躍してくれて、私のブログやFBの画像は全て彼の撮影によるものです。

彼は大手ゼネコンの次長でもあり、また防災士としても大地震の被災地に赴いて救助活動などボランティア活動でも活躍していて、安全対策の講演もお住まいの国分寺市で行っていたりとてもアクティブでした。

それからの4年間は私の音楽活動はまさに円熟の極みで年間70~80回、仙台はもとより、東京、大阪、神戸など週末毎に出掛けていました。

そのライブ活動も伊藤君のサポートがあればこそ可能だったと思います。
ほとんどのライブに一緒に行ってましたから200回以上で、それこそマネージャーとして行先の確認やチケットの手配、譜面整理や荷物持ちなどまるで私は一流アーティストみたいな感じでしたね~。

そして頼んでもいないのに、私の全ての出演記録としてライブ会場、そしてその時の曲目、共演者やバンドメンバーまで詳細に記載して作成してくれていました。

でも実は知り合ってから半年後に大腸がんが発覚し、それもステージⅢBですぐ聖路加病院に入院し手術。
一時はだいぶ快復してホッとしたのも束の間、やはり抗がん剤と放射線治療による副作用が酷く激痩せしました。
一昨年の秋には今年越せれば良いですねと国立がんセンターで余命宣告されました。

でもそれから1年と10か月延命しました。

その間の全身転移による痛みや呼吸困難にはどんなにか辛かった事でしょう。

弱音を吐かない伊藤君も最後は余りの痛みと呼吸不全が苦しくてどうしようもないので、ホスピスに入りましたとメールが来ました。
10/3の事でした。
その最後には「仙台と大阪などのライブに一緒出来て幸せでした。」と書いてありました。

すぐに返信しましたがそれからは全く返事が来ないので案じていましたが、彼のFBで10/12に亡くなったと大学の同級生が書き込みしているのを見て愕然としました。

彼のカメラのファインダーの先には「テリー橋本」がいて、私の決めポーズをしっかりと撮影してくれてました。
彼はテリー橋本の一番のファンでサポーターで有能なマネージャーでした。

ヒデ君、ホントに沢山の事を有難うね。
今思うともっと優しい言葉と慰労の言葉を掛けてやれば良かったと後悔しています。

私のライブパフォーマンスには全くダメだしをしないで、いつも鼓舞してくれましたね。
毎回のステージでの曲目を記録して、テリー橋本のライブ記録集も製作してくれていました。
伊藤君がいないライブステージは考えられません。

彼のご子息が今年大学に進学出来たことをとても喜んでいたのが眼に浮かびます。
何よりの救いだったと思います。

12/18(月)にマリアエヴァさんから六本木サテンドールでの今年最後の打ち上げライブにお誘いを頂きました。
今はまだステージで唄う事は出来ませんが、それまでにはだいぶ私の気持ちも落ち着いていると思うので、伊藤君のためにも出演させて頂く事にしました。

きっと彼も喜んで、姿は見えなくてもその魂は必ず会場に来ていると思います。

今までの沢山・沢山の全ての事に心からの感謝を込めて、伊藤秀行君のご冥福をお祈りいたします。

合掌

テリー橋本
昨年の誕生日祝いを六本木サテンドールで

昨年のジャズフェスの後TSKで

本郷の東京倶楽部のライブ後

一年前の秋保で


一昨年の夏・浅草のスターバックスで

昨年の正月に浅草今半で

秋保大滝で(昨年の秋)

酒田の山居倉庫(今年3月)

出羽三山で祈願

今年3月のANA庄内旅行で・・・。

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